今回は、こんな「読書嫌いな人」に向けて、「読書に対する固定概念」について解説していくよ!
「読書」って言葉への反応は2種類
そもそもなんだけどさ。
「読書」って言葉を聞いたときの反応って大きく2つに分かれると思うんだよね。
具体的には、
- 前のめりになって、「で、読書について何の話?」と興味津々な態度の人
- なんとなくうつむいて、「早くその話題、終わらないかなぁ」という反応の人
こんなかんじ。
でもさ、これって他にはない、結構「読書」特有の現象じゃないかなって思ってる。
野球を例に考えた場合
例えば「野球」を例にして考えてみるね。
野球だって当然、「野球が好きな人」と「野球が嫌いな人」に分かれるよね?
でもさ、「野球」の場合って、
- 野球が好きな人
- 野球が嫌いな人
どっちであっても、堂々とその自分の意見を表明するよね!
人によっては「野球には全く興味ありません!」「なんで野球に夢中になれるのかわからない!」なんて強めに否定する意見を表明する場合もあるよね
「読書」の義務感
でも、これが「読書」になると少しだけ様子が違ってくる印象を受ける。
なんていうか、
- 読書好きな人:ちょっと自慢げ
- 読書嫌いな人:ちょっと気まずそうで、肩身が狭そう
こんなかんじね!
確かに考えてみると、大学生~社会人になったあたりから、
- 「読書習慣の有無=教養の有無」の判断材料にされる
- 「読書が好き」だと感心される一方、「本を読まない」だと馬鹿にされる。
- 「〇〇」という本を読んだ経験の有無が、ある種の踏み絵になる
こんな風潮はあるじゃない?
そんな中で、「自分は読書をしてる」と公言できるわけだし、そりゃ若干、自慢げにもなるよね。
どことなく、「読書=していないと恥ずかしい大人のたしなみ」的な雰囲気は感じる
もっと自由に読書をしよう
そんな状況の中で、僕が伝えたいのは、
読書は「苦行」でも「義務」でもない!
こんなことね。
別に、別に本を読んでいないからって恥じる必要はないし、本を読まない人にも立派な人は多くいる。
何なら、「正しい読書」的な模範解答があるものでもないしね
「本を読んだけど好きになれない」っていうなら、別にいいと思うんだ!
でももし、「本を読まなきゃいけない感」のせいで読書を苦痛感じるのなら、その固定概念は本当に損だと思う。
多くの人は既に読書体験をたくさんしてる
というか、多くの人は既に、文章を読む経験ってたくさんしてるはずなんだよね!
例えば、
- 日々の仕事でのメールのやりとり
- 会議資料や仕事のマニュアルの読み込む
- 毎日行うニュースサイトのチェック
- 好きなタレントのブログ
- Twitterでのタイムライン
- 仕事に必要な資格を勉強するための参考書
- 料理の本やクックパッド
僕からしてみたら、これらも立派な読書体験の一つ!
要するに、多くの人は知らず知らずのうちに、たくさんの本に触れてるし、文章を読んでるってことね!
「読書」の定義
ただこんなふうに言うと、
こんな反応が返ってくるかと思う。
なぜか、読書家よりも、読書が苦手な人の方がこの手の主張をする人が多い印象…
でも、読書をそんなに定義の狭いものにする必要はないんじゃない?
多くの人が思い込みがちだけど、
- 製本されて
- 書店に並んでいて
- お金を払って買う本
こんな本だけが「読む」対象ではないよ!
読書の対象は、
- 文学史上の名作
- 古典
- 名著
こんな本でなくとも、ある程度まとまった文章読んでいるのであればそれは一つの読書体験。
それこそ、雑誌に載っていた好きなアーティストのインタビュー記事を読むのだって一つの読書だよ!
読書の定義は、
「言葉を読むことによって自分の世界を広げること」
これだけでいいんじゃないかな!
だから、一般的にはあまり「読書」と思われていない、
- 雑誌を読んで新しい知識を得る
- マンガでの一コマが心の琴線に触れ価値観が変わる
- Twitterのタイムラインに流れてきたツイートを読んで新たな行動に出る。
こういった行動だって、自分の中に何か変化があれば、変化の大小に関わらず、そんな言葉との出会いは全て読書だよ!
何かを読んだ結果、心や身体が動く。
そんな反応が起きるなら、それは立派な読書体験だとじゃないかな!
まとめ:自信を持って「読書好き」を公言しよう
今回の内容をまとめると、
- 「読書」は他の趣味よりもなぜかハードルが高く捉えられがち
- しかし、読書は苦行でも義務でもない
- そもそも、多くの人は様々な形で読書を行っている
- 活字を読んで、心や身体が動くのなら、それは「読書」。自信を持って読書好きを公言しよう!
こんなかんじ!
「読書」って聞くとハードルが高いように感じるよね。
でも、実際は既にみんな読書をしているんだって、知ってもらえたら嬉しいな!
それでは!